いつからだったろうか。彼の、兄を呼ぶ声が、どこか甘やかな香りを帯びるようになったのは。
「俊」
物心つくずっと前から、家族ぐるみで親しくしてきた門脇秀吾は、瑞垣家の次男坊である俊二のことをそう呼ぶ。それは生まれた時からずっとそうだったし、何ら違和感もないはずの呼び名だった。俊二の妹の香夏は、俊二を呼ぶその声が帯びる以前のそれとは全く違った何か特別な色を、誰よりも、他人のことには誰よりも敏感な兄の俊二自身よりも先に感じ取っていた。
「俊、あのな、今日のバッティングのことなんやけど」
「うっさいわ。食ってる間ぐらい黙っとれんのかお前は。後で聞いたるから今は黙って食え」
「じゃあ今日泊まってくわな。おばちゃん、よろしく」
いつものように同じ食卓を囲んでいた時、秀吾はそう言って嬉しそうに顔を緩めた。その笑顔さえも、今までにはない不思議なオーラのようなものを纏っている。秀吾とは対面の席に座している香夏には少なくともそう見えた。ちらりと兄の様子を覗う。俊二はというとこれといって特に変わった様子もなく、いつものように黙々と食事を続けている。その姿からは特に違和感は感じられない。
「俊、そんでな」
秀吾がその名を口にする度に、香夏の心の中にわだかまる違和感が確信に変わっていった。
――間違いない。彼は、兄に恋をしている。
「秀吾ちゃんてさ、彼女とかおらんの」
ある秋の夕暮れ。門脇家の庭で秀吾が素振りの練習をしているのをぼんやりと見ていた時のことだった。ふと口を突いて出た言葉はいつも香夏の胸の深いところにあった疑問だった。
ずっと聞いてみたかったことだ。今まで俊二が散々愚痴のように零していた言葉によると、秀吾は野球部のキャプテンで4番打者ということもあり、その器量や人柄の良さから大変女子からモテるらしい。秀吾の幼馴染という理由から俊二がその橋渡しをさせられている、という話も何度も聞かされていた。別に不思議なことではない。
秀吾は兄の俊二と並ぶと比較の対象にならないぐらい体格が良い。以前は体格も身長もさほど差はなかったように思えたのに、中学に入学した頃からの秀吾の身体的成長は目まぐるしいものだった。更に野球部に入部してから全身が引き締まり、香夏が久し振りに顔を合わせた時にはその急激な変化に何度も目を瞬かせたものだった。これまで自分と同じ子供だと思っていた秀吾が、突然見知らぬ大人の男性になってしまったような、喪失感にも似た不思議な感情に駆られたことを今でも鮮明に覚えている。
今では俊二を含めた同級生たちと並んでいても圧倒的に身に纏うオーラが違って見える。野球の才能とか器量の良さだとかそんな単純なものではなくて、女目に見て男っぽいのだ。だから彼女がいても何の不思議もない。それなのに香夏は何故か、いないだろうなと思った。ほとんど確信していた。
秀吾はそんな香夏の問いに、一瞬考えるような素振りを見せてから困ったように後頭をかいた。予想通りの返答が返ってくる。
「彼女…かぁ。今んとこはおらんな」
「でも秀吾ちゃんモテるんでしょ。お兄ちゃんがいつも愚痴ってるよ。何で秀吾の奴だけモテるんや〜って」
「あははっ、似とる似とる」
俊二の声真似をする香夏の言葉に、秀吾は男っぽい角張った顔をくしゃっと緩めて幼い無邪気な笑顔を見せた。外見よりもずっと幼いその笑顔は、香夏と俊二がずっと一緒に過ごしてきた今までのそれと少しも変わっていない。そんな些細なことが、ただ嬉しくてしょうがない。
「俊二が思うてるよりずっとな、あいつの方がモテるんやで」
秀吾はそう言って一瞬、切なげな笑みを浮かべる。その横顔に夕日の紅色が差し込むと、それはもう香夏の知っている顔ではなくなっていた。少し怖くなって身震いがした気さえした。
「カナッペ」
幼い頃からの、そんな色気も何もない子供っぽい呼び名を、秀吾は中学生になった今でも使い続けている。確かに秀吾とはもう生まれた時からの付き合いで、家族のようなもので。だからこそ今更呼び名を変えるなんてことがどれほど難しいかというのはよく分かっているつもりだけれど。無性に悲しくなって顔を俯ける。その声には、俊二を呼ぶ時のような、あの特別な色合いは何一つ含まれていない。
「どうしたんや?気分でも悪いんか?熱でもあるんとちがうか」
心配そうに言って、大きな手を優しく額に押し付けてくる。熱い手のひら。でも香夏はそれよりもずっと熱い自分の頬の火照りを確かに感じていた。そんな優しさは欲しくない。涙が出そうになるのをぐっと堪えて、唇をぎゅっと噛み締めた。
どうして気付いてしまったんだろう。
秀吾が、俊二に寄せる恋慕の情を。
自分が、秀吾に寄せるこの苦しくて空しくて切ない胸に込められた感情の意味を。
「ちょっと熱いかもしれん。早よう帰って寝てた方が」
「…秀吾ちゃん、」
「ん?」
秀吾の言葉を遮るように呼び止めると、まるで幼い妹をあやすかのように優しく問いかけてくる。その顔は、先刻夕日に照らされた男のものではなく、全く別人のもののように見えた。胸がぎゅっと痛む。
「彼女おらんのやったら…、うちが立候補してもええ?」
柔らかだった場の空気が一瞬、ピンと張り詰めるのを感じた。思わず声が上擦ってしまっていたかもしれないと思うと怖くて秀吾の顔を見ることができない。何を言ってるんだろう。冗談として流すには沈黙が長すぎた。こういう時兄の俊二なら、咄嗟の機転で上手く交わすことができるのだろう。混乱している頭の隅の方で、何故かぼんやりとそんなことを思った。
いっそのこと、はっきりと拒絶して欲しい。けれどそれは叶わないだろう。秀吾は俊二とは対照的に、人の気持ちを優先的に考え、相手を傷付けてしまうことを何より恐れる性格だ。だから今まで自分の妹のように可愛がってきた香夏の気持ちを冗談として受け流す機転の良さもないし、本気と受け取ってはっきりと拒絶の言葉を発する残酷さもない。この長い沈黙が、彼の中で葛藤し続けている優しさの何よりの証拠でもあるのだ。
でも今はそれが何よりも辛い。
「…すまん」
どれぐらい間が空いたのか分からないほど時間が経ってから、秀吾が今までに聞いたこともないような、胸の奥に響くような低音でそう言った。思わずハッとして顔を上げる。そこにはその逞しい体格からは想像もできないぐらい、弱々しく小さな彼の姿があった。何故か秀吾の方が泣き出しそうな顔をしている。
「おれ、今好きな奴がおるんや」
次の瞬間、その泣き出しそうに唇を噛み締めたそこから聞こえたのは、不思議なほど凛とした言葉だった。一瞬の揺らぎもない。ただ真っすぐ鼓膜に響いてくる。胸が締め付けられる。
「だからおれ、彼女とかそういうの、今は全然考えられへん」
「うん…」
「カナッペのこと、ずっと妹みたいに思っとったから、そういう風には…」
「うん」
「ごめん」
「ええよ」
秀吾は変わった。多分それは、俊二に対して恋心を抱き始めてからのことなのだろう。秀吾が野球に関すること以外で、こんなにもはっきりと意思表明をする言葉を初めて聞いた気がした。
「ええんよ。気にせんといて」
自分でも驚くほど自然に、そう言って笑うことができた。心が清々しい。初めて秀吾に、俊二の妹としてでなく、一人の女の子として対等に接して貰えた気がした。はっきりとした拒絶の言葉に救われた気さえした。
「好きな子って、秀吾ちゃんでも難しい人なんやろ?頑張ってや。諦めたらあかんで」
「あ、ああ…」
今度は逆に幼い子供を慰めるように、くしゃくしゃと秀吾の短い髪を撫でてやる。秀吾は少し身を屈めて、照れくさそうに香夏に身を委ねていた。そうしているうちに今まで周りと比べ物にならないぐらい大きいと感じていた秀吾が、何だか自分よりもずっと小さいように思えたりして、嬉しいような、悲しいような、不思議な気持ちでいっぱいになる。
「おい、お前ら。何しとるんや」
突然、聞き慣れた声がその場を揺るがせた。二人揃って声がした方に目をやると、そこには怪訝そうに眉を顰める瑞垣家の次男坊、俊二の姿があった。
「しゅ、俊!」
「お前ら…おれの知らん間にそういう関係やったんか」
「ち、違う!つーかそういう関係って何や!これには深い訳が…」
「うるせいアホっ!!よくも人の妹に手出しやがって…!!」
「ぐえっ」
物凄い形相で秀吾を睨みつけながらずかずかとこちらへ近付いてきた俊二は突然秀吾の胸倉に掴みかかった。けれどそれは本気の怒気を含んでおらず、普段二人がよくやっているプロレスの真似事の延長のようなものだった。それが分かっていたから香夏もあえて仲裁には入らない。
「しゅ、俊…!堪忍!堪忍や」
「もーお兄ちゃんてば!いい加減にしてよ!うちは秀吾ちゃんの練習を見てただけやし」
「ほほーう、練習見てただけやのに何でそない接近せなあかんねや。ええか、香夏。秀吾かて男やねんで。男なんてのはな、飢えた獣や。お前なんか気付いたらぺろっと一口で食われてまうぞ」
「…物凄い言われようやな」
俊二が早口で捲くし立てるように言う横で、秀吾はげんなりと肩を落とす。秀吾にしてみればその対象は自分ではなく俊二自身にあるのに、と思うと何だか秀吾が不憫に思えてきて少し可笑しくなってしまった。本来ならば香夏の恋敵は俊二であるはずなのに、当の俊二はというと自分の妹の方が大切で、秀吾の存在はというとぞんざいな扱いになってしまっている。
「うちはただ、秀吾ちゃんが次の試合でホームラン打てますようにっておまじないしてあげてただけやで」
「おまじないだぁ?」
再び顔を歪めると、俊二は秀吾と香夏の顔を交互に見比べた。
「何でお前がそんなんしてやる必要があるんや」
「べっつにぃ。うちじゃなくても、お兄ちゃんがしてあげたらええんやないの」
「はぁっ?」
香夏の不遜な物言いに、俊二は事態がまるで飲み込めていない苛立ちを、キッと目元を吊り上げて秀吾にぶつけた。秀吾の方もわけが分からないとでもいう風にただうろたえるだけだ。
「チューしてくれたら打てるかもしれないって秀吾ちゃんが言うから」
「なっ…!か、カナッペ何を…」
「てめぇ…」
「い、いや、違うんや俊!!誤解や!!」
「人の妹にそんな破廉恥なこと頼みやがったんかお前は!!見損なったで秀吾!!」
「だから違うって…!!」
秀吾は露骨に顔を赤らめてぶんぶんと首を左右に振り乱しながら必死に否定の言葉を繰り返している。慌てふためく秀吾と怒りに肩を震わせる俊二の構図がすごく可笑しくて、思わず香夏は笑い出してしまっていた。
「うちの代わりにお兄ちゃんがしてあげたら?そしたら打てるかもしれんよ」
「か、カナッペ…っ」
「よぉーし、秀吾!こっち向け!香夏にさせるぐらいならおれがしてやる!!」
「えっ、えっ、ちょ…待っ、俊…!!」
二人の声が遠ざかる。香夏はそろそろ冷え込み始める秋の夕暮れを一人、自宅へと向かって歩き出していた。
早足で歩くとスニーカーが砂利を蹴って鈍い音を立てる。そのうち視界が濁って見えてきた。ゆらゆらと揺れるアスファルトの上に、ぽたりと淡い染みが落ちる。そこでやっと自分が泣いていることに気が付いた。
「…っふ、ふぇ…っく、」
思わず立ち止まる。人一倍負けん気の強い香夏が声を出して泣いたのは、もうどれぐらい振りかも忘れてしまった。そのぐらい、大きかった。大切だった。
「おれ、今好きな奴がおるんや」
それでも、秀吾が自分の気持ちを真正面から受け止めてくれたことが何よりも嬉しかった。だから決して秀吾の前では泣かないと決めていた。困らせたくなかったから。幸せになって欲しいと心から思えるから。
「うぇ…っぅ…」
ずずっと鼻をすすりながら、香夏はしばらくその場に蹲っていた。また明日笑って秀吾に会えるように。笑って彼の背中を押してあげられるように。だから今日だけは、初めて味わう恋の辛さを涙と共に流してしまおうと思った。
――またいつか、新しい恋に出会えるように。