※この話は「侵食される熱」の続きになってます。




まだ日も暮れ切らない夏の夕闇の向こうに、いつもの見慣れた顔と見慣れない装いが見えてくる。彼はいつもと同じように、いやいつもより幾らか楽しそうな笑みを顔いっぱいに浮かべて小走りでこちらへ駆け寄ってきた。

「瑞垣せんぱ〜い!お待たせしましたっ!」
「おう、もう10分以上は待ったで」
「もう先輩ってば!そこは「ううん、今来たとこ」っていうのがデートの定番でしょ!」
「何がデートやねん。それにおれ時間にルーズな奴は嫌いなんや」
「相変わらずつれないっすねぇ」

吉貞伸弘は観念したように苦笑を漏らすと小さく肩をすくめて見せた。以前の彼であればもっとしつこく突っ掛ってきたはずなのにと、伸弘の何気ないその振る舞いに時間の経過を思い知らされる。もうあれから一年以上経つ。ならばどうして自分の中のこの想いはいつまでも風化することを許してはくれないのだろう。そういう女々しい方へ思考が引っ張られてしまうのも全部この間伸弘に言われた言葉の所為なのだと思い出しかけて、瑞垣俊二は小さく舌打ちをした。

「門脇さんのこと、まだ想っとるんでしょ」

そう言われた。誰にも気付かれていないと思っていたその事実をあっさりと、しかも他校生で少し前まではほとんど面識のなかった伸弘に言い当てられた。そのうえ明らかに動揺を隠せずに上手い具合にはぐらかすことが出来なかった自分に無性に腹が立った。少しずつ、想いは風化の一途を辿っていると思っていた。なのに自分は今、あれほどみっともなく人前に動揺を晒してしまうほど強い想いを抱いているのではないか。そう思うと無性に腹立たしくて仕方がなかった。

「やっぱ先輩、すごい浴衣似合っとる〜!」

伸弘は俊二の姿をまじまじと一通り気の済むまで眺めると感嘆の声を上げた。

「野郎に浴衣姿褒められても全然嬉しないわ」
「そうっすか?おれは先輩に褒めて貰えたら何でも嬉しいですけど〜」
「万が一にもお前に対して褒めれるようなことがあったらの話やけどな」
「ああん、もう先輩のいじわるっ!」

俊二がはいはいと気のない返事をすると伸弘は唇を尖らせて拗ねたような素振りをする。こういう子供っぽいところは以前と何ら変わりがないことに俊二はどこかほっと安堵してしまう。情緒不安定なのかもしれない。そうでもなければ絶対にあのような失態は犯さなかったはずだ。

「この間はあんなに可愛かったのに」

伸弘は大袈裟に肩をすくめて溜め息を漏らすとちらりと横目に俊二を見やった。ほら来たと言わんばかりに俊二は思い切り凄んで伸弘を睨みつけてやる。野郎に可愛いと言われて嬉しがる奴もいないだろうと言い返そうとして、やっぱりやめた。これ以上その話題を引っ張るのはなるべく避けたかった。

あの日は完全にどうかしていたのだ。門脇秀吾への想いを言い当てられたあの日、俊二は伸弘と一夜を共にした。要するにそういうことだ。気が動転していたのだと思う。何より俊二自身、ベッドの上で正気を取り戻した時はしばらくの間事態を把握することが出来なかった。というより、把握することを頭が拒否していた。しかしそんな思考の抵抗も空しく、下半身が訴える物理的な痛みにその事実を目前に叩きつけられた。勿論男同士の経験なんて一切なかったし、しかも伸弘を受け入れたのは他でもない俊二自身だ。羞恥や屈辱よりも先に後悔の念が押し寄せてきて、俊二はただとにかく信じられない気持ちでいっぱいになった。

今日俊二に無理矢理デートとも言い難い約束を取り付けさせたのも伸弘だった。どういう情報網を持って知ったのかは分からないが横手で年に一度開催される小さな街ながらそれなりの規模のを誇る夏祭りに伸弘はどうしても俊二と一緒に行きたいと言ってきた。それを言う為に自宅まで押しかけてきたのが三回、電話をかけてきたのが八回(そのうち五回は居留守を使った)と、結局俊二は伸弘の執念深さに根負けして今日に至ったというわけだ。大体今更デートがどうのって、完全に順序が逆じゃないのかと俊二はほとんどどうでもいいことに思考を巡らせていた。

「じゃ、行きましょっか」

伸弘は相変わらず緩みっぱなしの表情を隠そうともせず、しかもごく自然な素振りで手を差し出してきた。勿論男同士で手など繋げるわけがない。俊二は最早言い返すのも面倒になって大きく溜め息を吐いただけだった。



















「先輩!ほら、早く早く!」

子供のように無邪気にはしゃぎ回る伸弘を遠目に見ながら、俊二はゆっくり自分の歩幅を保って歩いた。まるで保護者の気分だ。伸弘はいくら外見的には成長したとは言え中身は所詮ただの中学生だった。年に一度の夏祭りとなればついはしゃいでしまうのも無理はない。やっぱり来るんじゃなかったと俊二はまた後悔した。

そこはこの小さな街のどこから沸いてきたのだろうと不思議になるほどの活気と人で溢れていた。大人から子供まで、みんな何がそんなに楽しいのか笑みをいっぱいに浮かべながら俊二の横を通り過ぎていく。人混みは嫌いだった。ぼんやりと辺りに立ち並ぶ屋台の行列を見ていたら何だか急に秀吾のことを思い出した。そういえば幼い頃はよく秀吾と二人で夏祭りに出かけていた。あの頃は目に映る何もかもが嬉しくて楽しくて、ちょうど目の前を駆け抜けていった子供と同じように瞳をきらきらさせていた。少なくとも秀吾のそういう瞳を俊二は今でも鮮明に思い出せる。

いつの間にか伸弘の姿が見当たらなくなっていた。どうやらはぐれてしまったようだと俊二は冷静に思った。一人でその場に佇みながら、もう帰ってしまおうか、ちらりとそんな風に思いかけた時だった。

「…俊?」

背後からたった一人にしか呼ばれることのない呼び方で声を掛けられた。寒いわけではないのに背筋が凍るような感覚に見舞われる。

「やっぱり俊やないか」

もう一度呼ばれたところでようやく振り向けた。ふっと息を吐く。さっき鮮明に蘇った記憶の中の少年が、体の大きさは格段に違えどあの頃と同じ瞳でこちらを見ていた。俊二は思わずしばらく口にしなかったその名前を呼んだ。

「秀吾…」
「久し振りやなぁ。奇遇やないか」

門脇秀吾は俊二の姿を確認すると本当に嬉しそうに駆け寄ってきた。秀吾が近くへ来ると俊二は彼の以前との体格の差にぐっと息を飲んだ。まるで違うのだ。俊二の記憶している秀吾とは体の締まり方や筋肉のつき方、それに身にまとっているオーラが以前とはまるで違って見えた。たった一年だろう。その短い時間の間に秀吾は一度脱皮でも試みたのだろうか。そんな馬鹿げたことを本気で思ってしまうほど、秀吾の変化は身体的にも精神的にも著しいものだった。

「お前最近おれのこと避けてるみたいやったから…、会えて良かった」

そんな風に言いながら少し寂しげに笑う顔にようやく薄暗くなり始めた夜の気配が影を作って、秀吾をより大人っぽく演出した。頬が少しこけたかもしれない。秀吾を見上げる時に首を上げる角度が大きくなったような気がして少し悔しくなる。

「別に避けてたわけやない」
「嘘つけ。何回電話かけても居留守使っとったやないか。知っとるんやで」
「今更お前と話すことなんか何もないやろ」

さらりと口にした俊二の言葉に、秀吾はやっぱりまた寂しそうに表情を歪めた。相変わらず真っ直ぐに視線を注いでくる。視線が突き刺さる。俊二はその視線に応えることが出来ない。ただ顔を逸らしたまま何も言わなかった。

「あのな、俊。実はおれな…」
「門脇〜!まだなん?」

その言葉の続きを遮るかのように秀吾の背後から声がした。そちらを見やると数人の男女のグループが秀吾を待っているようだった。秀吾は振り向いて「悪い、もうちょっと待ってくれ」とだけ声を掛けると再び俊二に向き直った。

「連れがおるんやったら早よ行けや。体裁悪ぅなるぞ」
「野球部で気が知れとる奴ばっかりやから平気や」
「へぇー野球部の…」

もう一度秀吾の背後をちらりと一瞥する。いかにも野球部員といった汗臭そうな男子達の中になかなか可愛らしい女子も2人ほど混じっていた。野球部のマネージャーだろうか。またそんなどうでもいいことをぼんやりと思った。

「俊、おれらの学校な、実は夏の甲子園出場が決まったんや」
「ふーん」
「ふーんて…それだけかよ。まあええわ。そんでな、俊に見に来て貰いたいんや。それをずっと言いたくてな」
「……」
「俊?」

上の空で視線を遠くへ泳がせる俊二の様子に、秀吾は不安げに黙り込んだ俊二の顔を覗き込む。無性に腹立たしくなった。目の前にいる秀吾の頬を思いっきりぶん殴ってやりたい衝動に駆られる。何故だ。何故おれに構う。何故おれを解放してくれない。残酷で凶暴な想いが体中を駆け巡る。――苦しいんや秀吾。もう勘弁してくれ。助けてくれ。

「おれも連れが待っとるから、そろそろ行くわ」
「俊、待てや」

強い力で腕を捕まれる。その衝撃に俊二が肩を揺らすと、秀吾は怯んだように指の力を弱めた。それでも拘束を解こうとはしない。秀吾と目が合う。真剣な眼差しだった。

「おれ、待っとるから。待っとるからな」

怯んだ隙に思いっきり秀吾の手を振り払うと、俊二はその場から逃げ出すように全力で駆け出した。ごった返す人の波と着慣れない浴衣の裾が邪魔をして全力といってもほとんど上手く走れなかった。それでも少しでも遠く、秀吾から遠く離れたくて、俊二はがむしゃらに走った。何も考えたくなかった。それでも、最後に目にした秀吾の真剣な表情が頭に焼き付いてどうしても離れてはくれなかった。



















「先輩っ!先輩ってば!」

後ろからまた腕を捕まれる。俊二はそれを反射的に振り払っていた。それが伸弘のものだとは分かっていた。その手はしつこく俊二の腕を捕らえて引き止めようとする。

「離せっ」
「ちょ…先輩!待って!何があったんすか!」

ただならぬ俊二の異変に伸弘も動揺を隠せないらしく、伸弘は必死に俊二の後を追いかけながら激しく息を切らしていた。

「別に何もない。帰るんや」
「帰るったって…そんな急がなくてもいいじゃないですか!」

俊二も激しく息を乱しながらハッと我に返った。足を止める。――何を取り乱してるんや。おれらしくもない。
額に手をやるとじんわりと汗が滲んでいた。久し振りに走った所為か、距離にしてみればほんの僅かしか走っていないのに乱れる呼吸を抑えることが出来ない。精神的にも体力的にも自己制御の利かない自分に焦る。いつの間にこんなに脆くなってしまったのだろう。必死に胸を押さえ息を整えていると伸弘の強い視線を感じて顔を上げる。

「もしかして門脇さんに会うたんですか」

俊二は口端を上げて歪んだ笑顔を作った。

「またお前は門脇さん門脇さんて馬鹿の一つ覚えみたいに…」
「会うたんですね」

伸弘が一歩距離を詰める。同時に俊二は一歩後退った。またこいつ、的確に核心を突いてきやがる。俊二はせめてこの胸の内を悟られまいと目尻を吊り上げて伸弘を睨みつけた。また一歩伸弘が近付き、俊二が後退る。また一歩。すると突然背中に何か硬いものがぶつかる衝撃を覚えて俊二はそこから先へ動けなくなった。木だ。そう認識した時にはすでに遅かった。

瞬間、聴覚を奪うような大きな音がした。すっかり暗くなった漆黒色の夜空に大きな光が広がっていく。打ち上げ花火。色彩豊かな光に照らされ、俊二は伸弘の唇の感触を確かに感じた。一度目は優しく触れるように。二度目は軽く啄ばむように。三度目は味わうように深く、深く口付けられた。そうしているうちに次第に俊二も堪らなくなって呼吸を合わせながら伸弘の舌に自分のそれを絡ませる。どうしてこいつはこうも人の弱みに付け入るのが巧いのだろうと、俊二は何故か泣き出したい気持ちになった。

「先輩、好きです」

唇の間から零れるそんなありきたりな言葉さえ、俊二の頭を蕩けさせていく。何も考えられなくなる。何も考えられなくしてくれる。少なくとも今の俊二にはそれが有難かった。今だけは少しでもいい、脳裏に焼き付いた秀吾のあの表情を少しでも遠ざけていて欲しかった。だから、伸弘に甘えた。

鮮やかな花火が次々と打ち上げられていく。人々はそれらに視線を奪われて二人の事になどまったく気付かない。俊二はあの日したように伸弘の首に腕を回すと強くその体を掻き抱いていた。伸弘も力強く俊二の体を抱き返す。そこでようやく唇が離れた。

「…っ先輩、おれもっと強くなります」

伸弘の熱を持った唇が今度は俊二の耳元に押し付けられて、俊二は軽く身を震わせた。

「門脇さんを想ってる先輩ごと受け止められるように」

掠れた声がどこか弱々しく鼓膜に響いた。伸弘の鍛えられた肩が小さく震えていて、まるで小動物を抱いているような錯覚に捕らわれる。無理をしているのが痛いぐらいに伝わってきた。もうすぐ花火が終わってしまう。俊二は汗ばんだ額を伸弘の肩口に埋めると花火の音にかき消されそうなほど小さな声で言った。

「せめて忘れさせたるぐらいのこと言えや、アホ」

花火が終わる。けれど俊二は熱くなった頬が冷めるまで、しばらくそのまま伸弘の肩口に顔を埋めていた。




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