「もう、先輩ってば制服脱いだらちゃんとハンガーに掛けとかないとだめでしょ」
まるで母親の小言を思い出させるような調子で、吉貞伸弘は帰宅するなり制服の上着を無造作にベットの脇の方へ脱ぎ捨てる瑞垣俊二にそう言った。その一言に俊二は露骨に表情を歪める。
「またお前かいなクリノスケ」
心底相手をするのが面倒だとでも言うように俊二が吐き捨てると、伸弘はニカッと白い歯を見せて笑った。俊二はいつも彼のこういう笑顔を見るとくらりと軽い眩暈を覚える。勿論恋人相手に抱くようなそんな鮮やかなものではない。寧ろその逆で、こういう顔をして笑う時の伸弘はいつも何らかの思惑を握っている。しかもその対象は必ず俊二自身にあった。
あの春の日以来頻繁に新田から横手にある俊二の自宅まで通ってくるこの吉貞伸弘という男がどうやら自分に対して好意を寄せているらしいことはその現状から嫌でも気付かざるを得なかった。しかも彼の言うところによる好意とは野球を通じての憧れや羨望とかいう類の生温い対象ではなく、れっきとした恋愛対象としてのそれだと言うのだから俊二が頭を悩ませるのも無理はない。あの口の軽い伸弘の言うことだ。俊二も最初は完全にからかわれているのだとばかり思っていた。だから自分もついいつもの悪い癖で彼の軽口に乗ってしまった。今考えるとそれがいけなかったのだ。
「先輩ってば!そんな露骨に嫌そうな顔するのやめて!」
「これだけ毎日のようにお前みたいな奴と顔合わせてたら誰だって嫌にもなるわ」
「毎日って、昨日は来てないっすよ!あ、もしかして先輩毎日会いたかったですか?昨日はおれに会えなくて寂しかった?」
俊二はがっくりと肩を落として、どうしてこいつはいつもこうなのだろうと大きく溜め息を零した。この吉貞伸弘という男には露骨な厭味や皮肉がまったく通用しない。羨ましいほどにポジティブ思考なのだ。疎ましいほどでもある。伸弘は脱ぎ捨てられた俊二の上着を丁寧にハンガーに引っ掛けると、へへっと人懐っこい笑顔をこちらに向けていた。
「…なんや」
「今日は先輩の家族みんな出掛けてるみたいですね」
「ああ、何やそんなこと言うてたな。それがどうした」
表面上には素っ気無い返答を返しつつも、俊二は内心で焦り始めていた。伸弘が笑みを一層深くする。俊二もそれに負けじと無理矢理顔を歪めて笑みを作った。
「先輩、一年前の約束ちゃんと覚えてますよね」
あれはまだ横手の木々が桜色の鮮やかさを失っていなかった頃だから、春も中頃のことだ。野球から足を洗って丸一年後の春、俊二は突然の訪問者に二、三度目を瞬かせた。
「お久し振りです瑞垣先輩!」
「どちら様ですか」
「も〜やだなぁ先輩ってば!そんな今更照れなくってもいいのにぃ〜」
目の前でくねくねと体を捩るその様に思いっきり不快な視線を浴びせる。決して照れているわけではない。寧ろ俊二にとって伸弘は取り扱い注意の真っ赤なラベルを貼られた危険物そのものなのだ。もしかすると海音寺よりも扱い辛い相手かもしれない。そんな奴が新田からわざわざ横手の自宅まで訪ねてくる理由を、この時の俊二は知る由もなかった。
「今日は先輩に大事な話があって来たんです」
「早急にお引取り願います」
「ちょ…っ!先輩!待って待って!」
俊二が一度開いたドアを再び閉めようとすると伸弘は本当に慌てた様子で反対側のドアノブを掴んだ。強い力だ。現役を務め続ける者と退いた者との一年の差をまざまざと見せ付けるかのように、ドアは俊二の抵抗も空しくあっさりこじ開けられた。それでも伸弘の方も必死だったのだろう、軽く息を乱し肩で息をしている。たった一年だ。その間に伸弘の肩は俊二の記憶のものと比べ物にならないほど強靭に逞しく鍛え上げられているように見えた。
「普通可愛い後輩に大事な話があるって言われたら優しく部屋に迎え入れてくれるのが先輩ってもんですよ!」
「お前、誰?」
「えぇっ!もっ、もしかして瑞垣先輩おれのこと忘れとる!?」
本気でショックを受けたのだろうか、さっきまで意気揚々と赤味を帯びていた顔がみるみる蒼白していく。勿論こんな強烈なインパクトのある男を忘れるはずがない。忘れたくても忘れられなかった。それが悔しくてわざと忘れた振りを装ってみる。まさかこれほど素直に反応が返ってくるとは思わなくて、俊二は思わず吹き出してしまった。
「せ、せんぱ…っ何笑ってんすか!」
伸弘はどこか慌てたようなそれでいて安堵を隠せない複雑な表情を浮かべていた。その表情にさえ一年前の時に記憶しているあのあどけなさは感じられない。たった一年だ。その短い時間の間に伸弘は俊二の記憶にあった彼の姿とは一変してしまっていて、まるで別人と会話しているような錯覚さえ起こす。
俊二はいよいよ観念して、以前彼の名前を呼ぶ代わりに代用していたニックネームを口にした。
「新田のクリノスケが今更おれに何の用やねん」
「良かったっ!やっぱ先輩おれのこと覚えててくれたんですね!ノブヒロ感激っ!」
「用があるなら今ここで要点だけ簡潔にまとめて話せ。10秒以内な」
我ながら子供っぽいことを言っていると思う。久し振りに会う伸弘がやけに大人びて見えたせいで少し卑屈っぽくなっていたのかもしれない。だが伸弘はそんな俊二の無茶苦茶な要求に対し特に慌てる風もなく、今度は俊二の記憶にある幼い笑顔を満面に浮かべて一言、言った。
「瑞垣先輩、好きです。約束通りおれとお付き合いして下さい」
「…さあ、何やったっけ」
平静を装ったつもりでいたがほんの少し声が上擦っていたかもしれない。
「忘れたとは言わせないっすよ!おれがその為にどれだけ努力してきたと思うてるんですか!」
「お前の努力なんかおれが知るわけないやろが」
俊二は少し棘のある口調で苛立ったように言いながら机の上に置いてあった煙草を口に銜えると、ちらりと目の端に伸弘の姿を映した。改めて一年前との違いに圧倒され小さく息を飲む。俊二は同級生の中では小柄な方ではあったがさして身長が低いとか特別体が小さいとかそういうわけではなかった。体が小さいのではなく線が細いだけだ。なのに今目の前にいる2つも年下の伸弘に対し露骨な劣等感を抱いてしまうほど彼の身体的成長には目を見張るものがあった。
「ひどい!約束破るなんて人として最低っすよ先輩!」
「元々おれがそういう人間やて知っとるくせに」
「ずるい!だって先輩ちゃんと約束してくれたじゃないですか〜!」
覚えている。そう、一年経った今でも鮮明に記憶している。忘れていない。それが何より悔しい。
「おれが先輩より成長できたら付き合うてくれるって」
「…そうは言うとらん。考えてもええって言うただけや」
「ほらほらっ!先輩ちゃんと覚えてくれてる!」
「チッ…」
つい伸弘のペースに嵌って余計なことを口走ってしまう。俊二は小さく舌を鳴らすと露骨にバツの悪そうな顔をした。そうだ、確かに約束した。一年前のあの試合の後、俊二は伸弘に捕まって彼の胸の内を告白された。愛の告白ってやつだ。今時の中学生なら当たり前にありふれている光景。これで相手がふわふわでいい匂いのするふっくらした女の子だったら二つ返事で受け入れたのに。まさか新田で一番自分を煙たがっていると思っていた伸弘から愛の告白を受けるなんて。
「ふーん、でもおれって実は面食いなのよねぇ。お前がおれより背も高くってええ男に成長できたら考えてやらなくもないけど」
どうしてあの時きっぱりと拒絶の言葉を選ばなかったのだろうと俊二は今になって後悔していた。どうせいつもの軽口だろうと高を括っていつもの調子で茶化してやったのが間違いだった。結局伸弘はその一年後、俊二よりもやや上背のある立派な野球少年へと成長を遂げて自分の前に現れた。どうやら彼の気持ちが本物らしいことだけは俊二にもよく分かった。
「身長は…まあ百歩譲ってクリアしたとしても、顔はなぁ…おれ面食いやって言うたやろ」
「何言うてるんですか!おれの美貌を前にしてまだそんな悪あがきを!」
「…お前ほんまに幸せなやっちゃな」
それに、と俊二は付け加えるように言いながら揶揄するように薄笑いを浮かべた。
「お前、今おれに彼女がおるとか考えへんわけ」
伸弘の喉がこくりと鳴る。瞳は真剣そのものだった。あまりに真っ直ぐすぎて俊二も思わず息を飲み込んだ。
「いませんよ。だって先輩、門脇さんのこと忘れたわけじゃないでしょ」
久しく耳にすることのなかったその名を聞いて、俊二の肩がビクリと震える。口に銜えていた煙草をもう少しで落としそうになった。まさか伸弘の口からその名が零れるなんて思いもしなかったから。伸弘は相変わらず真っ直ぐな視線で俊二の姿を捕らえて離さない。
「門脇さんのこと、まだ想っとるんでしょ」
「何言うてんのや…」
「ずっと前から知ってましたよ。おれ、ずっと先輩のこと見てたんじゃから」
あまりに淡々と告げられる衝撃的な内容に、俊二はカッと頭に血が上るのを生々しく感じた。この一年間その名前を決して口にすることのなかった門脇秀吾とはほとんど顔さえ合わすことがなくなっていた。野球推薦で県外の高校へ行くものだとばかり思っていた彼がたった一球のボールに魅せられ地元の高校へ進学してから、俊二は秀吾から逃げ回るように避け続けていた。このまま会わずに風化していくのを待とうと決意した想いだ。誰にも、秀吾にさえ気付かれていないと思っていた。それが、まさか。
「おれを甘く見てもらっちゃ困ります」
ぐっと腕を捕まれる衝撃に思わず眉を歪める。いつの間にか距離を詰めていた伸弘に見下ろされるのは居心地が悪くて、俊二はすかさずその手を払おうとした。ビクともしない。強い力だ。顔を上げる。威圧するような伸弘の強い視線とぶつかった。
「離せ」
「忘れたいんでしょ」
「やめろ…離せっ」
「だめです先輩。ちょっと黙って」
「ン…」
押し黙らせるように唇を重ねられた。同時にひやりと冷たい壁に強引に押し付けられて背中がじんと痛んだ。伸弘の熱が唇を伝って俊二の中へ流れ込んでくる。熱い。こいつ、内にこんなに熱いものを秘めてるような奴だったのかと頭のどこか冷めた部分が思考を鈍らせる。
「先輩、好きです」
うるさくて、自信家で、口が悪くて、冗談も皮肉も通じない能天気な奴。
「解放してあげたいんです。先輩を」
最低だ。解放どころか、いつの間にか侵食されている。門脇秀吾より、毎日のように顔を合わせるこのお調子者に思考を支配されていく気がする。そういえば以前は嫌でも目に飛び込んできた秀吾のあのどこか幼さの残る印象的な笑顔を、今はもうおぼろげにしか思い出せない。それが無性に、悲しくなる。
「ん、やめ…」
一層深さを増す口付けを否定の声を上げながら受け入れてしまう自分が無性に悲しくなった。唇から流れ込んでくる熱が全身に浸透していく。薄れていくのは彼の人生で言う長年の間じんわりと温めてきた熱で。急激に熱くなっていくのはつい3ヶ月ほど前に改めて告白をされた目の前にいる厄介なお調子者に口付けられているせいで。
仄かに赤く染まった目尻から訳もなく一筋の雫が伝う。瞼を閉じる。ああ、いつの間におれはこんな奴の熱に浮かされていたんだろうと、俊二は優しくベッドの上に倒されながら次第に火照っていく体とは対照的にどこか冷えた頭でふと思った。再び目を開けると伸弘がどこか物悲しげな笑みを浮かべていた。その表情が未だかつて目にしたことのない扇情的なものだったから、俊二は堪らずその背中に腕を回していた。