夏休みに勝負を賭ける受験生たちが塾だ家庭教師だと嘆き始める初夏のある日曜日、同じく受験戦争真っ只中にいるはずの瑞垣俊二は分厚い問題集を手に取るなりつまらなそうに顔を歪めてみせるとすぐに放り投げてしまった。余裕綽々の態度だ。癇癪を起こした時の子供の行為にも似ている。
「俊、それ去年卒業した先輩から貰ったやつなんやからもうちょっと丁重に扱えや」
俊二の幼なじみでもあり、悪友でもある門脇秀吾は苦笑を漏らしながら床に放り投げられた問題集を拾い上げた。秀吾は言葉に似合わない機嫌の良さそうな笑みを浮かべている。それとは対照的に不機嫌極まりない表情を顔面いっぱいに露わにしている俊二はそんな秀吾を見やって思い切り不服そうに眉をしかめた。
「野球推薦で高校決まっとる奴が今頃お勉強なんかすんなや。嫌味やで」
「決まっとるからって勉強せんでええわけやないやろ」
「だからって何でわざわざおれの部屋で勉強する必要があるんや」
空調が良い具合に効いた俊二の部屋で、俊二と秀吾の二人は作業用の小さな机を引っ張り出しその上に教科書や問題集を広げた状態で向かい合って座っていた。窓の外では一日で一番活発な昼間の太陽光がじりじりと草木を焦がしていた。木々の合間から窓ガラスを伝ってくる蝉の大合唱と、秀吾の夏でなくても暑苦しい幼い満面の笑みが暑さと苛立ちに拍車をかける。
「だって俊も勉強するんやろ?二人で一緒にやった方が効率ええやないか」
俊二は軽く舌打ちすると、二人でやって効率がええんはお前だけやろがと面倒臭そうに銜えていた煙草を灰皿に押し付けながらぼやいた。実際普段の成績を比べてみても俊二の方が優秀であることは歴然だった。つまり二人で一緒に勉強をするということは俊二にとっては時間を浪費するデメリットにしかならない。さっき癇癪を起こした子供のように問題集を放り投げてしまったのも、俊二が何度も教えた数学の公式を何度も聞き返してくる秀吾にとうとう嫌気が差したからだった。
「あのなぁ秀吾、お前さっきから人の話聞く気あるんか」
「悪い…つい俊に見とれてしもて」
「そんなに見つめられると俊二恥ずかしい〜…って冗談は置いといて続きやるぞ」
「俊って意外と睫毛長いんやなぁ。ずっと一緒におったのに全然気付かんかった」
「秀吾ちゃん、今はおれの睫毛の話じゃなくて二次関数の公式を」
「な、触ってもええ?」
そう聞くなり秀吾は突然腕を伸ばして俊二の顔に触れてきた。不意を突かれたのと物心ついてからずっと一緒にいた幼なじみの顔があまりに至近距離に近付いたのに驚いて、俊二は一瞬びくりと身を震わせた。思わず反射的に身を引く。秀吾が少し切なそうに瞳を揺らして微笑っていた。
――こいつ、いつの間にこんな顔するようになったんや。
「好きや」
秀吾にそう告白されたのはつい先日のことで。俊二には力強く抱きしめられた自分より一回り大きなその腕を拒絶することが出来なかった。あまりに突然で予想外の事だったから、俊敏性にはそれなりの自信を持っていた俊二も一瞬身をかわすのが遅れてしまったのだ。あっという間に捕らえられてしまっていた。
「好きや、俊」
どうやらそれがいけなかったらしい。秀吾は一瞬の事で思考能力を奪われた俊二の沈黙を肯定と受け取ってしまったようなのだ。抱きしめる腕に尚一層の力が込められ、俊二は堪らず身じろぎをした。同時にいつもの冷静な思考が戻ってくる。おれは秀吾に抱きしめられている。あの門脇秀吾に、好きだって?
「アホっ、急に触んなや」
「へへっ」
「なんや、気持ち悪い顔しおって」
秀吾が一瞬触れた頬から僅かに熱が伝ってくるのをやけに生々しく感じて、これはちょっとやばいなと思う。そんな胸中に気付かれたくなくて俊二はあくまで平静を装った。心の奥で軽く舌打ちをする。秀吾があまりにも緩んだ顔でにやけるものだから無性に腹立たしくなったのだ。
「だって俊、前まではそんなに嫌がらんかったのに」
「何が言いたいんや」
「つまりそれっておれのこと前より意識してくれとるってことやろ」
俊二は思わず目を見張って瞬きをする。
「意識って…お前今更何を言うとるんや」
「何って、こないだ言うたやろ。おれは俊の事が」
「あ〜!はいはい!もう分かったからさっさと続きすんで」
「俊!ちゃんと聞け!」
「聞いとるって…ちょっ、痛い!痛いて秀吾!」
核心から逃れるように茶化し続ける俊二の態度にいい加減我慢ができなくなったのか、秀吾の強い力が俊二の野球をやっているにしてはやや華奢目の細い手首を捕らえた。そこからびりっと全身に走ったものが痛みから来るそれなのか、それとも別の何かなのか。考えたくもなかった。考える余裕すら与えられず、あっという間に俊二はそのまま床に押し倒されてしまった。見上げる形になって視線を上げると、秀吾の体がいつもより一回り大きく見える。
「ちゃんと聞いてくれ俊」
「…ふーん、なるほどな。やたら熱心にお勉強したがると思ったら、そっちのお勉強がしたかったのね秀吾ちゃん」
「なんや、そっちのって」
「ふふ、分からんかったら特別に教えたるわ。耳貸してみ」
楽しそうに唇を歪めて笑う俊二に、何か企んでいるとは分かっていても抗うことが出来ない秀吾は恐る恐る俊二の唇に耳を寄せた。あのな、と口を開く俊二の吐息を耳朶に感じた瞬間、そこにとんでもない痛みが走った。そのあまりの痛みに秀吾は思わず小さな悲鳴を上げて飛び退く。それを見計らって俊二は秀吾の巨体を押し退けると、するりと器用にその場から逃れた。耳朶に走った激痛に表情を歪ませる秀吾が軽く瞳を潤ませて俊二を睨んでいた。
「っう…、思いっきり噛み付くことないやろ」
「秀吾ちゃんが性急すぎるから悪いんです。あーあ、手首赤うなっとるやないの」
「俊が茶化すからやないか…」
「おれのせいかよ」
「俊のせいや」
突然トーンを落とした秀吾の声が低く耳に届いて、俊二は方眉を上げて秀吾を見返した。
「何やて?」
「こんなにドキドキしとるんは俊のせいなんや」
いきなり何を言い出すのかと思い眉根をひそめると、秀吾は未だかつて試合上でしか見せたことのない真剣な眼差しをこちらに向けていた。そのあまりの眼光に俊二はぐっと息を詰める。これほど強い眼差しを直接浴びせられたのは幼なじみである秀吾にさえ初めての事だった。
「噛み付かれて興奮するとはやっぱお前は筋金入りのドMやな」
「俊」
「はっきり言うとくけどな秀吾、おれはお前の気持ちを受け入れたわけやないんやぞ」
これ以上秀吾に言葉を続けさせまいと俊二は無意識のうちに早口で捲くし立てるように言った。うっかり舌を噛みそうになる。もう一本煙草を吸いたいと思った。
「あの時はただびっくりして何も考えられへんかっただけや。それだけのことやで」
吐き捨てるように言うと、秀吾はまたさっきの切なげな瞳を揺らして笑んだ。この瞳が嫌だ。
「それだけで充分やで。俊はいつも都合悪いことは茶化して誤魔化そうとするけど、おれの気持ちは茶化そうとせんかったもんな」
「はぁ?何わけのわからんこと言うてんねん」
「それに今、俊かてドキドキしとるやろ」
不覚にも俊二の鼓動が高く波打った。これは明らかに自分が動揺しているという警告。動揺?このおれが?秀吾の一言で?あり得ない。そんなことはあり得ない。頭の奥で真っ赤なサイレンが鳴り響く音がした。息が苦しくなる。
「ふざけんなよ…」
いつものように軽く茶化して水に流してしまえばいい。いつだって都合の悪い時はそうやってきた。しかも相手はあの秀吾だ。軽く流してこの場を逃れるぐらい朝飯前の事じゃないか。
「ふざけんな秀吾」
だがそれ以上言葉が続かない。サイレンの音が大きくなる。混乱している。それだけは自分でもよく分かった。
「ふざけとらん。おれは本気やで」
「うるせぇ」
「なぁ俊、ゆっくりでええよ。ゆっくりでええから…」
「黙れ」
さっき俊二の手首を強く掴んだ秀吾の逞しい腕が今度は優しく俊二の背中に回る。秀吾に抱きしめられるのは二度目だったけど、初めての時に感じた息詰まるような焦燥感や困惑はなかった。ただふっと全身から力が抜けていくような心地の良い抱擁だった。どのくらいそうしていただろう。いつの間にか先程までの高ぶっていた鼓動とサイレンの音が鳴り止んでいたのに気付いて、俊二は軽く身じろいだ。小さく舌打ちをする。一瞬でも他人に身を委ねてしまった自分にどうしようもない嫌悪感を感じた。
「秀吾」
呼び慣れたその名を口にすると、秀吾は腕の中に納まった幼なじみの顔を見て笑った。
「ゆっくりでええよ、俊」
その笑顔があまりに幼くて無垢なものだったから、俊二は悪態を吐くのも気が引けてしまって黙り込んだ。同時に結局おれはこいつから逃れることは出来ないんだろうなと半ば諦めの混じったような想いに駆られた。そんな風に思いながら自分がどういう顔をしていたのか分からないけれど、そんな自分を見て目の前の幼なじみが相変わらずその幼い笑顔を満面に浮かべていたから、きっとそう満更でもない顔をしていたのかもしれない。そう思うと無性に悔しくて、俊二はもう一度彼の仄かに染まった耳朶に噛み付いてやろうかと思った。