夏が間近に迫ったことをまざまざと見せ付けるように照り付ける陽の光が、昨日の激しい雨によってぐっしょり濡らされたアスファルトをあっさり干上がらせてしまっている。夏だ。額にうっすらと滲んだ汗がゆっくり頬を伝う。夏がやって来る。
「遅ぇな、あの野郎…」
夏は大嫌いだ。瑞垣俊二にとって迫り来るこの暑さは彼が最も嫌悪する季節を知らしめる警告だった。頬を伝う汗を軽く拭ってみる。べとついたこの感じが嫌だ。俊二は露骨に舌打ちをしてからもう一度駅構内の大きな時計に目をやった。
海音寺一希から電話があったのはつい小1時間ほど前のことだ。お互い高校へ進学してからろくに連絡も取っていなかったし、取ろうとも思わなかった。おそらく一希だって部活に勉学にと忙しいのであろうし、それは俊二だって同じことだった。だから試験を間近に備えたこの時期の貴重な土曜日に、まさか一希の方から連絡をよこすとは思いもしなかったのだ。
「よう瑞垣、久し振り。おれのこと覚えてる?」
俊二はもう一度小さく舌打ちをした。苛立ちを隠せない俊二を約束の場所に立たせてから約15分、未だ一希の姿は見えない。燃えるアスファルトの容赦ない照り返しが尚一層俊二の心を苛立たせた。波打つ苛立ちと怒りが、まだ姿を見せない厄介で面倒な彼の声を思い起こさせ、あの時適当に悪態を吐いて電源を切ってしまえば良かったという後悔を交えて胸中に渦巻く。
「いきなりで悪いんじゃけど、これから新田まで出てこれるか?」
約束の時間をあと5分でも過ぎればこのまま次の電車で横手まで戻ってやる。そう決意し、もう一度構内の時計を確認しようと顔を上げたその時だった。このくそ暑い気温の程を微塵も感じさせない涼しげな色白の肌がすっと目の前を横切る。その動きがその肌色同様まったく暑さを気にしない活発なものだったので、思わず俊二は目を奪われていた。白い肌に対照的な黒髪の少年。どこかで見覚えがあるような気がした。どこかで…
「お兄ちゃん」
突然の呼びかけが自分に向けられたものであることに俊二はしばらく気が付かなかった。ふと声の方へ視線を落とす。そこには先程の少年の涼しげな笑顔があった。
「お兄ちゃん、こんにちは」
「はい、こんにちは〜…ってお前、おれのこと知っとるん?」
「うん、知っとるよ。お兄ちゃんのお友達じゃろ」
確かに見覚えはある。だが生憎俊二の年下の知り合いと言えば現在横手第二中の野球部で監督代わりをしている後輩たちぐらいのものだったし、その他にどこで繋がっている知り合いなのかさっぱり見当がつかない。ましてや新田にいる知り合いなど一希を含めて以前試合経験のある新田東中の連中ぐらいのものだ。俊二は記憶の糸を辿ってこの少年と繋がる手掛かりを探りあぐねていた。見覚えはあっても記憶と繋がらない顔。鬱陶しい暑さに加えてこの気持ちの悪い消化不良な感じが嫌だ。
「思い出せん?ほらっ、ぼくら一緒に野球して遊んだじゃろ」
「野球…?」
「うん。そんでな、お兄ちゃんが焼きブタサンド半分こしてくれたんで。すごい美味しかったんで」
「ああ!お前、もしかせんでも原田の…!」
「瑞垣!」
野球と焼きブタサンドという2つの手掛かりを手繰り、やっと目の前の少年が一本の記憶の糸と繋がったところで、少年の後方から名前を呼ばれた。こっちは嫌というほど聞き飽きた声だ。記憶を辿らずとも海音寺一希という口にもしたくない名前と繋がる。一希は一目見てここまで全力で走ってきたことが分かるほど激しく発汗し荒い息を整えながら俊二に近付いてきた。俊二はというと彼が弁解の一声を発する前に思いっきり怒声を張り上げていた。
「21分42秒の大遅刻や、アホっ!」
「すまん…、出掛けに姉貴に捕まってしもうて…」
「原田弟がおらんかったら次の電車で帰るとこやったぞ!感謝せえよ」
「原田弟…?」
「こいつや。こいつに呼び止められへんかったらおれは…」
「え?原田弟ってまさかあの原田の弟かよ。この子が?」
「他にどの原田がおるんや」
一希は俊二に言われて初めてそこに少年の姿を確認したようだった。原田という名前を聞くととても信じられないという風に目を瞬かせる。
「お兄ちゃん、ぼくそんなヘンテコな名前と違うで。原田青波っていうんじゃ」
「ほほーう、じゃあ言わせてもらうけどな青波くん。おれかてちゃんと名前があんねんで。瑞垣や、みずがきしゅんじ。お分かり?」
「俊二お兄ちゃん?」
「そうや。相変わらずお前は兄貴と違って出来のええ子やな。しばらく見ない間にでっかくなりおって」
俊二の軽く汗ばんだ手が青波の柔らかな黒髪を撫でる。気持ちが良かった。すぐには思い出せなかったはずだ。あの時と比べて青波はぐんと身長が伸び、体つきも一回り成長を遂げていたのだから。青波は嬉しそうに笑みを零すと、俊二の隣に突っ立っていた一希に視線を移した。どうやら一希とは面識がないらしく軽く小首をかしげて再び俊二を見つめてくる。
「俊二お兄ちゃん、こっちのお兄ちゃんは?」
「ああ、そっちのは海音寺や。むっつりおじちゃんとでも呼んでやれ」
「むっつり?」
「ちょっ…瑞垣!何言うとるんじゃ!」
一希は本当に慌てた様子で青波にきちんと訂正をし、今の言葉は絶対忘れるよう必死に何度も言い聞かせていた。その光景が何とも滑稽に映って俊二は久し振りに腹を抱えて笑った。さっきまで大遅刻してきた一希にどんな悪態を浴びせてやろうかと考えていた苛立ちも怒りも不思議なほどきれいさっぱり消え失せてしまっていた。
「でも信じられんよな」
トレイの上に置かれたフライドポテトを一つ口に運びながら、一希はその言葉通り信じられないという顔つきで青波を見ている。とりあえず外気温の暑さから逃れたかった俊二と一希の二人は青波を連れて駅前のファーストフード店の一角に腰を落ち着けていた。空調の効いた店内は同じ目的であるらしい大勢の若者でごった返している。土曜日の昼時にふさわしい繁盛ぶりだ。
「原田にこんな可愛い弟がおったなんて」
「おれも初めて会うた時はびっくりしたわ。何しろ性格まで兄貴とは間逆で素直素直。ほんまよう出来た弟くんやで。なあ?」
青波は俊二の問いかけの意味が上手く理解できなかったらしく、オレンジジュースをストローですすりながら僅かに小首をかしげただけだった。
「で、何の用なんや海音寺」
何の前触れもなく唐突に核心に触れてきた俊二に、一希は口に含んでいたポテトを喉に詰まらせ軽く咳き込んだ。その様子を俊二が冷ややかな目で見ている。どうにもやり辛い雰囲気だ。
「このおれを試験前の貴重な土曜日にわざわざ新田まで呼び出したその用件とやらを聞かせて貰おうやないの」
「試験前って言うても瑞垣なら問題ないじゃろ」
「問題はないけどな、まさか海音寺、お前用事もなしにおれを呼び出したわけやないやろ」
「な、ポテト食べてもええ?」
「ああええよ。食え食え」
「まさかのまさかじゃ。別に用事があるわけじゃなくて、急に瑞垣の顔見たくなったんじゃ」
「俊二お兄ちゃんもオレンジジュースいる?」
「ん、ああ。…っておい!ちょっと待てお前わざわざそれだけの為に」
差し出されたオレンジジュースの入った紙コップを前に、俊二はその言葉の続きを飲み込んでしまった。青波を挟んでの会話はなかなか要領を得ず、どうにもやり辛い。俊二は青波からオレンジジュースを受け取ると露骨に歪めた唇でストローに噛み付いた。さっき消え失せたはずの苛立ちが再び沸々と熱を持ち始める。
「瑞垣なら試験前でも問題ないと思ったんじゃ。実際そうじゃろ?」
「……」
「それに、おれもお前も試験前ぐらいじゃないと練習が忙しくて時間取れんしな」
「……」
「な、瑞垣。久し振りなんじゃし、今日はうちに来いよ」
「一希お兄ちゃんは俊二お兄ちゃんのこと好きなん?」
俊二の横で大人しくポテトをかじっていたと思っていた青波の突然の一言で、その場の空気が大きく揺らいだ。俊二はオレンジジュースを器官に詰まらせ激しくむせていたし、一希はというとトレイの上から今まさに口に運ぼうとしたポテトを床に落としてしまった。青波が何か不思議なものを見るような目で二人を交互に凝視する。
「…違った?」
「あ、いや…別に違わないけど…」
「アホっ!何が違わんのや!否定しろ!」
「だって嘘は吐けんし」
「そこで頬染めんな!キモイ!」
「み、瑞垣、声がでかい」
「俊二お兄ちゃんも耳真っ赤じゃ」
青波が何故か嬉しそうに笑い声を上げる。これは思わず感情的になり声を荒げてしまったせいだと俊二は自分に言い聞かせ、周囲の視線を気にしながら大きく舌打ちをして背もたれに寄りかかった。やっぱり原田の弟だけあって扱い辛い奴だ。よく出来た弟だと称賛した先刻の言葉を撤回したい気持ちになった。
「何かこうしてるとおれらに子供が出来たみたいじゃな」
おまけにいつの間にか青波と一緒になって笑っていた一希が突然わけのわからないことを言い始める。俊二は露骨に眉根をひそめ、再び冷ややかな視線を一希に浴びせた。
「はぁっ?大丈夫一希ちゃん?そろそろ暑さで頭沸いてきたんとちがう?」
「瑞垣が本気ならおれ頑張って元気な子産むで」
「…アホかお前は。どっちかというと産むはめになるんはおれの方やろが」
「……」
「……」
「…あ、そっか」
「……今自分で言うて思いっきり後悔したわ」
俊二は大袈裟に溜め息を一つ吐いて肩を落とすと、ジーンズのポケットから煙草のケースを取り出した。実際一希とは成り行きでそういう関係を持ったことが何度かある。どういう経過を辿ってそうなったのかは自分でもよく分からない。最近ではお互いに連絡を取り合うことすら疎かになっていたのでもう随分と前のことのようにも思える。そしておそらく一希がその延長上で今日自分をこの場に呼び出したであろうことも薄々気が付いていた。気が付いていて、のこのことやって来てしまった。それが今日俊二を無性に苛立たせていた一番の理由かもしれない。それをどうしてもこの暑さのせいにしてしまいたかったのかもしれない。
「なあなあ、子供って何?どうやって産むのん?」
「いや……、何でもないんや。青波は気にせんでええ」
青波の純粋な問いかけに、一希はごほんと気まずげに咳払いをした。空調の効いている店内でまったく暑さの感じられない中、一希の頬は明らかに紅潮していた。何か想像したのかもしれない。やっぱりむっつりじゃねえか、こいつ。そう思う自分の頬にも僅かながら熱を感じてしまって、俊二はやり切れない気持ちになった。
「あっ、マサくんじゃ!」
気まずい沈黙を破り、突然席を立ち上がったのは青波だった。どうやら窓の外に友達を見つけたらしい。青波はいつの間に持っていたのか座席の隅に置いていたグローブとボールを急いで小脇に抱えると、俊二と一希の方に向き直って軽く一礼した。
「俊二お兄ちゃん、一希お兄ちゃん、今日はどうもありがとう。また遊んでな」
呆然とする二人を気にも留めず、青波はくるりと方向を変えると駆け足で店を去っていってしまった。その後姿をしばらく見守る。まさに嵐の後の静けさが二人の間に落ちた。俊二が思わずくつくつと喉を鳴らして笑い出す。
「…なあ海音寺、仮におれとお前の間に子供が出来たとしても絶対あんなよう出来た子は産まれへんやろな」
「まだ言うか」
「まっ、一希ちゃんてばやらしーい。今何か想像したやろ。顔赤いで」
「お前がやらしいことばっかり言うからじゃろ」
「先に言うたんは一希ちゃんやないの」
暑さから来るわけではない頬の熱に一希は気まずそうに視線を外す。俊二は口元を軽く歪めて笑った。さっきまで来なければ良かったと思っていた。それが今では今日一日ぐらい一希の家庭教師をしてやってもいいかな、なんて軽い気持ちが芽生え始めている。
「今日だけやからな、海音寺」
夏というのもそう悪くないかもしれない。そんな風に思えるのはおそらく涼しい室内にいる間だけのことなのだろうと、俊二は窓の外に広がる灼熱の光景を眺めながらぼんやり思った。